赤外およびラマン分光による温度応答性高分子の解析
1. はじめに
赤外(infrared, IR)吸収およびラマン散乱(Raman scattering)は、分子の化学構造やコンフォメーション、分子間の相互作用に敏感な分子振動(molecular vibration)に基づいている。分子により赤外光が吸収されるための第一の条件は、光のエネルギーと分子振動のエネルギーが一致することである。振動数ν の光のエネルギーはhν(h:プランク定数)で与えられ、これが分子の持つ異なる振動エネルギー準位の間のエネルギー差(ΔE)と正確に一致する(hν = ΔE)ときに、分子は赤外光を吸収して低い準位から高い準位へ振動励起される(図1)。室温付近では分子は振動基底状態にあるため、基底状態から第1励起エネルギー準位への遷移が最小のエネルギーで起こる。これが基音に相当し、その振動数はνvibである。赤外光は、便宜的に3つの領域(近赤外光、中赤外光、遠赤外光)に分割されるが、分子の基準振動(基音)のエネルギーは中赤外(mid infrared、約4000 - 400 cm-1)の領域にある。近赤外(約14000 – 4000 cm-1)のエネルギーはそれよりも高く、倍音や結合音を励起することができる。マイクロ波領域に隣接している遠赤外光(約400 - 10 cm-1)は低エネルギーであり、水素結合などの弱い非共有結合性の相互作用の解析に使用できる。赤外光が分子に吸収されるための第二の条件は、振動により双極子モーメント(m)が変化することである。この条件は、平衡位置からの原子の変位を(Q)とすると、数式では(∂m/∂Q)0 ≠ 0で表され、赤外吸収の選択律と呼ばれる。ν = νvibかつ (∂ì/∂Q)0 ≠ 0であれば、光子のエネルギーは分子によって吸収されると言える。
一方、ラマン散乱は分子による電磁波の非弾性散乱の一種である。すなわち、分子に振動数νの単色光を照射すると、振動数が保存されるレイリー散乱に加えて、分子振動(νvib)とのエネルギー授受により振動数が保存されないラマン散乱光が観測される。ラマン散乱は、振動数がν - νvibで与えられるストークス散乱とν + νvibで与えられるアンチストークス散乱に分けられ、結果として分子の振動エネルギー準位が上方または下方へ遷移するために光子エネルギーが減少または増加することに起因する(図1)。したがって、このエネルギーシフトは、赤外分光法と同様に分子振動に関する情報をもたらす。ラマン散乱の強度は、原子の変位(Q)に伴う分極率(α)との変化に依存し、(∂α/∂Q)0 ≠ 0のときにラマン活性になる。n個の原子のからなる分子は伸縮および面内および面外の変角振動からなる3n-6個(非線形の場合)の基準振動を持つが、各振動モードはIRまたはラマンの選択律に従うと活性になりそれぞれのスペクトル上で吸収または散乱ピークが現れる。上述したように赤外吸収の選択律とラマン散乱の選択律は物理的性質が異なるので、赤外とラマンのピークの相対的な強度は異なり、しばしば、一方で強度が高ければ、他方では低くなるので、2つの振動分光法は相補的に使用されている。一般に、IR吸収は極性の結合で、ラマン散乱は非極性の結合で強いと言える。ポリエチレンを例にすると、極性のC-水素結合は赤外で、非極性のC-C結合はラマン散乱で強く観測される。また、水は極性が高いため強いIR吸収を示すが、弱いラマン散乱体である。この事実は、水溶液のスペクトルの測定において重要である。
振動分光法は分子振動という非常に周期の短い現象に基づいているので、高い時間分解能を持つ。この点で他の多くの分析法に対して優位性がある。光の振動数(ν)はν = cw(c:光速(2.99×108 m・s-1)、w:波数である)で与えられる。例えば、O-H伸縮振動の典型的な波数(3300 cm-1)は1014 s-1の振動数を与え、これはO-H伸縮の周期が10-14 s = 10 fsであることを意味する。これは典型的な水素結合の寿命よりも短い。したがって、各O-H振振動子は、1サイクルの振動中に水素結合状態と非水素結合状態の両方を占めることができない。これは、2つの異なる状態のエネルギーレベルが、振動分光法においては時間平均されないことを意味する。水素結合種と非水素結合種に対する振動エネルギーの差が十分に大きければ、IRまたはラマンスペクトルでは二つの別個のピークを観察でき、それらの強度の比から存在率を見積もることができる。同様に、C-C結合の連鎖のトランスとゴーシュの立体配座についても異なる波数にピークを与えるため、コンフォメーション解析が可能である。これらは、振動分光法が分子のコンフォメーションや水素結合のような動的な構造や相互作用を分析するのに適していると言われる理由である。
図1. IR吸収とラマン散乱のエネルギー図