研究
生物物理学・数理生物学・システム生物学・理論免疫学などの分野で、数理モデルとデータ解析を用いて生命現象を研究しています。研究では統計力学・力学系理論・情報理論・学習理論と、自己組織化や複雑系の考え方を基礎にしています。
これまでに発表した研究の主なテーマは次の三つです。現在はこれら以外のテーマにも取り組んでいます。
- 細胞による情報処理の仕組み(免疫細胞による自己・非自己の識別)
- 細胞の中でミトコンドリアの配置が決まる仕組み
- 疾患の経過と治療応答の予測
研究の考え方はページの最後の「研究の背景」に書いています。
細胞による情報処理の仕組み
T 細胞は結合の強さのわずかな違いから自己と非自己の分子を区別します。この識別は kinetic proofreading によって説明されることが多くあります(Hopfield 1974、Ninio 1975、T 細胞では McKeithan 1995)。反応に複数の段階を設けて結合の弱い分子が途中で外れるようにする仕組みです。ただし段階を増やすほど識別は正確になる一方で、応答は遅く弱くなります。私たちはよく知られた二つの非線形な仕組みをネットワークの部品として組み合わせました。kinetic proofreading と、酵素反応の飽和によって生じる0次超感度(Goldbeter と Koshland 1981)です。前者が結合の強さの違いを受容体のリン酸化の速さの違いに変換し、リン酸化と脱リン酸化の両方が飽和していると、その違いが鋭く増幅されます(0次超特異性)。この仕組みでは段階が一つでも、少量の標的を高い感度でとらえながら高い特異性で見分けることができ、応答も速くなります。モデルを拡張すれば、大量にある非標的の分子には応答しない性質を加えられることも示しました(Phys. Rev. E 2017)。
T 細胞が活性化するとき、細胞の表面ではリガンドと結合した受容体が集まってクラスターをつくります。私たちは、リガンドごとにクラスターができ、限られた数の受容体を取り合う確率的なモデルを調べました(Chaos 2020)。あるリガンドのクラスターが十分に大きくなったとき、細胞はそのリガンドを標的と認識すると考えます。標的のリガンドは、クラスターが受容体を取り込む協同的な反応をわずかに促すだけです。
細胞の中の反応は関わる分子の数が少ないため確率的にゆらぎ、ゆらぎは一般に情報処理の精度を下げると考えられます。ところがこのモデルでは、ゆらぎがあるほうが標的を正確に見分けられました。ゆらぎが小さいと、どのクラスターもほぼ同じ大きさにとどまり、標的のクラスターも少し大きくなるだけなので、標的と非標的を区別できません。ゆらぎが適度に大きくなると、一つのクラスターが受容体の大半を集める状態が現れます(ノイズ誘起対称性の破れ)。このとき標的のクラスターだけが大きいまま安定に保たれるので、標的のわずかな違いが大きな差になり、標的を高い感度と特異性で検出できます。ゆらぎが大きすぎると、非標的のクラスターも確率的に大きくなって誤りが増えます。そのため、検出の誤りはゆらぎが適度な強さ(下の図の σ が中程度)のときに最も少なくなりました。
非標的のリガンドが多い環境でも、ゆらぎの強さが適切であれば検出の精度はほとんど落ちませんでした。非標的のクラスター同士が受容体を取り合うので非標的に誤って反応することは減り、その代わりに増える標的の見逃しは、ゆらぎを強めることで釣り合わせられます。
関連: Phys. Rev. E (2017)、Chaos (2020)、生産研究 (2019)、Biophysics (2015)。
細胞の中でミトコンドリアの配置が決まる仕組み
中枢神経系の神経細胞では、髄鞘やシナプスのない軸索に沿って、止まっているミトコンドリアが比較的均一に並んでいます。共同研究者の実験では、ミトコンドリアの周りで ATP の割合(ATP:ADP 比)が比較的高いことが観察されました。また、光を当ててミトコンドリアを局所的に不活性化すると、近くのミトコンドリアが移動しにくくなりました。このことから、機能しているミトコンドリアが近くのミトコンドリアの運動を促すことが示唆されました。同じ論文の数理モデルでは、ミトコンドリアが作る ATP の勾配と ATP に依存した運動の調節によって均一な分布が生じうることを示しました(Mol. Cell. Neurosci. 2022)。
私たちは理論モデルを用いて、ミトコンドリアが ATP を作ることと、ATP 濃度に依存した向きのないゆらぎだけで、ミトコンドリアがほぼ等間隔に並ぶことを示しました(Phys. Rev. Research 2024)。ミトコンドリア同士の直接の相互作用も、ミトコンドリアの内部状態や記憶も仮定していません。ミトコンドリアは ATP を作るので、二つが近づくと周りの ATP 濃度が上がり、動きのゆらぎが大きくなります。離れると ATP 濃度が下がってゆらぎが小さくなり、その位置に留まりやすくなります。その結果、ATP の濃度を介して互いを遠ざける実効的な斥力が生じます。熱ゆらぎによって生じる熱力学的な力と似た力が、エネルギーを消費する非平衡な過程から生じていると見ることができることから、私たちはこの力をアクティブな熱力学的な力(active thermodynamic force)と名付けました。この研究は科研費 基盤研究(B) で続けています。
関連: Phys. Rev. Research (2024)、Mol. Cell. Neurosci. (2022)。プレスリリース
疾患の経過と治療応答の予測
臨床検査で測られる値は、病気の状態そのものではなく、その一部を反映したものです。私たちは、検査値の時系列から直接観測できない病態を推定し、病態の時間変化を記述する数理モデルとそのパラメータを推定することで、病気の経過や治療への応答を予測する方法を研究しています。
慢性骨髄性白血病(CML)はチロシンキナーゼ阻害薬で予後が大きく改善しましたが、効き方は患者によって異なります。私たちは、正常な白血球と CML 細胞の数の時間変化を記述する単純な力学系モデルを用いました。これらの細胞数は直接は測れませんが、日常の診療で測られる白血球数と BCR-ABL1(IS)から、CML 細胞の減少の速さや収束値などのパラメータを患者ごとに推定できます。推定したパラメータによって、ニロチニブへの応答が異なる患者を分類できました。治療開始後の3時点のデータだけで、深い分子遺伝学的奏効という治療目標に達しない患者を高い精度で見分けられました(npj Syst. Biol. Appl. 2022)。モデルは阻害薬への応答の一般的な性質だけに基づいているので、他の阻害薬にも使える可能性があります。
関連: npj Syst. Biol. Appl. (2022)。プレスリリース
研究の背景
京都の鴨川の河原では、川沿いに座るカップルがほぼ等間隔に並ぶことが知られています。誰かが並び方を決めているわけではありません。隣が近すぎれば少し落ち着かなくなって場所を移り、ほどよく離れたところで腰を落ち着ける。それぞれが気ままにふるまっているだけなのに、全体としては整った配置ができあがります。
学生の頃、分子の集まりにすぎない生命がどうして考えたり判断したりできるのかが不思議でした。シャノンの情報理論を読んだり『攻殻機動隊』を見たりするうちに、作中の電脳化のような技術を思い浮かべ、一つの細胞がどのように情報を処理し、記憶しているのかに興味をもつようになりました。シュレーディンガーは『生命とは何か』のなかで、物理の法則は膨大な数の原子の平均として成り立つものであり、原子の数が少なければゆらぎが大きくなって正確な法則は成り立たなくなると述べています。ところが細胞の中では、多くの種類の分子が数えられるほどの個数しかありません。それでも細胞は正確に情報を処理しています。
免疫細胞の一種である T 細胞はアミノ酸が一つ違うだけの抗原ペプチドを見分け、ごく少数の抗原ペプチドにも素早く応答します。卒業研究を始めた頃、T 細胞が活性化するときに受容体が細胞の表面で小さな集まり(マイクロクラスター)をつくる様子を、蛍光顕微鏡の画像や動画で見ました。この集まりが情報処理の性能に役立っているのではないかと気になっていました。当時の私は、細胞がゆらぎをどう抑えてこの精度を保っているのかという方向で考えていました。ところが、ゆらぎの大きさがその時々の状態によって変わるモデルを調べると、ゆらぎがむしろ見分ける力を高めうることが分かりました。
神経細胞の中のミトコンドリアでも、似たことが起きていると考えています。ミトコンドリアは ATP を作り、私たちのモデルでは ATP の多いところほど大きくゆらいで動きます。すると、他のミトコンドリアの近くでは動き続け、離れるとその場に留まりやすくなります。その結果、押し合っているわけではないのに、軸索に沿ってほぼ等間隔に並びます。鴨川の河原とよく似ています。
細胞が働いているのは、シュレーディンガーが指摘したようなゆらぎを無視できない大きさの世界、いわゆるメゾスコピックな領域です。工学では、ノイズはできるだけ取り除くべきものです。精密な機械を作るなら、部品はゆらがないほうがよい。ところが生命はなぜかこの領域を使っていて、それでいてうまく働いています。そうであれば、生命はゆらぎをただ抑えているだけでなく、どこかでゆらぎを使っているのではないでしょうか。人間の直感に反するこうした仕組みがあるところに面白さを感じています。
なぜ誰かに指示をされたわけでもなく、特定の現象や問題に惹かれ、それを理解したいと思ってしまうのでしょうか。多くの人が研究していることは、その成果を学べばいずれ分かるので、それほど気になりません。誰も手をつけていないことは、自分で調べない限り分からないままなので、気になってそこに留まってしまうのだと思います。隣が近いと場所を移し、間隔のあいたところに留まる鴨川のカップルのように、私は自分の意思で不思議な現象を選んで調べてきたつもりでいて、実は他の研究者との間に働く実効的な斥力に押されて空いている場所へ移ってきただけなのでしょう。
研究者の好奇心の対象も、そうやって間隔をあけて並んでいるのかもしれません。私自身も、その時々に気になった問題を選んできただけのつもりですが、振り返ると、選んだ問題の間には思っていた以上のつながりがあります。私を含めた研究者たちの好奇心から生まれた発見の痕跡を、あとで俯瞰したとき、知識の空間にはどんな秩序や模様が見えるのでしょうか。科学や学問の体系も、誰かが全体を設計したわけではないのに整った形をもつという点で、案外、鴨川に並ぶカップルの等間隔の配置に似ているのかもしれません。