資源とエネルギー

 

限られた大きさの地球上で人類が生きながらえるためには、エネルギーを節約し、公害の発生を抑えて行かなければならないということが真剣に議論されはじめてから、もうすでに10年以上になる。

1960年代前半までのアメリカでは「消費は美徳」と、使い捨て文明を享受していたが、あちこちで公害問題が起こりはじめるに及んで、そうはいかなくなってきた。それにもかかわらず、日本にもやや遅れて、消費は美徳の時代がやってきた。しかし、それも1973年のオイルショックに始まるエネルギー危機で、終止符を打たれたのである。そして、いまでは、エネルギー問題や公害問題が、核戦争を避ける問題とともに、人類に課せられた最大の問題になっている。

エネルギーを節約しなければならない。しかし、ここで考えなければならないのは、エネルギーを節約するといっても、どのようにするのが本当の節約なのか、うまくやれば快適さを犠牲にせずに節約し、公害も避けることができるのか、という問題である。

18〜19世紀の人々もエネルギー問題に直面していた。当時は石炭を熱源とする、蒸気機関の時代であった。石炭の消費量が増え、石炭を掘るのがますます困難になってくると、彼らはより効率の高いエネルギーの利用法を求めた。その過程で熱と動力エネルギーを結びつける科学として、熱力学が発展したのであった。そこでの重要な概念の一つに、エントロピーがあった。エントロピーは、物理学にそれまでなかった新しいものの見方を与えた。物理学では、ふつうは保存する量に着目して理論体系がつくられる。エネルギー保存則は、エネルギーが熱から仕事に形を変えても、エネルギーの総量は増えも減りもしないことをいう。これに対し、エントロピーは一定値にとどまるよりも、むしろ時間がたつと、多くの場合、増大するところにその意義がある。そしてエントロピーによって、エネルギーの質までが議論できるようになったのである。

 

(1)エネルギーは保存する

「エネルギーを節約しましょう。」というのは、英語では Save energy というが、Conserve energy ともいう。物理学者が後者を見たとき、非常に不思議な表現だと思う。エネルギーは conserve (保存)するものだからである。

振り子の振動を考えてみると、位置のエネルギーと運動のエネルギーは相互に転換し入れ換わる。しかし、位置のエネルギーと運動のエネルギーの和、すなわち全エネルギーの値はいつでも一定である。このことをエネルギーは保存するという。しかし、しばらく見続けていると、振り子の振幅は次第に小さくなり、位置のエネルギーと運動のエネルギーの和、これを力学的エネルギーというが、その値は次第に小さくなる。実際には、振り子の支点の摩擦や、空気の抵抗があるからである。そのために力学的エネルギーが熱エネルギーに変わったのである。そこで全エネルギーとして、力学的エネルギーだけでなく、熱エネルギーも含めると、全エネルギーはやはり一定の値にとどまり、エネルギーは保存している。

 

(2)エネルギーの質

しかし、ここで大切な違いが起こったのを見逃してはならない。運動のエネルギーはおもりを再び持ち上げて、位置のエネルギーに戻った。これに対し、熱エネルギーになってしまったものは、自然に位置のエネルギーや運動のエネルギーには戻らない。生成した熱エネルギーが再びおもりに集中して、おもりがしぜんに持ち上がったなどということは、見たことも聞いたこともない。これは、現金を支払ってまったく等価の物を買った場合に似ている。現金はなんにでも替えられるが、物は再び現金に替えられるとは限らないし、替えられても損をするのがふつうである。ここでエネルギーや価値は変わっていないが、何かがなくなり、エネルギーや価値の質が落ちたのである。この「質」は後ほどエントロピーに結びつけられる。

ここで「自然」には戻らないと言ったが、人工的には熱を仕事に変えることができる。高温の熱源があると、エンジンを動かして、仕事すなわち力学的エネルギーを取り出すことができる。また、人工的に温度差をつくることも可能である。冷房に使われるクーラーや暖房に使われるヒートポンプはそのための機械である。クーラーは低温の室内から熱を集めて高温の室外に熱を捨て、室内外に温度差をつくり出す。暖房の場合には、「室内」と「室外」を入れ換えればよい。このような装置は、一般にはヒートポンプと呼ばれている。ヒートポンプで大切なことは、それを働かせるのに、電力なり良質のエネルギーなりが必要だということである。エネルギーの質を考えるのに、変化が自然に元に戻る性質のものか、そうではないものなのかを考えることがきわめて大切である。これらはそれぞれ、可逆過程と非可逆過程と呼ばれている。振り子の運動における位置と運動のエネルギーの転換は可逆であった。これに対し、振り子の力学的エネルギーが摩擦などで熱に変わるのは非可逆過程である。生成した熱のために、振り子の温度は周囲の環境よりも少しは高くなるが、振り子が止まった後は、熱エネルギーが環境に散らばって、振り子の温度は環境の温度と等しくなってしまう。これらの非可逆過程は、それぞれ力学的エネルギーや熱エネルギーが散逸する過程だといわれる。

 

(3)非可逆過程で系は熱平衡へ向かう

可逆過程には時間の方向性はみられないが、非可逆過程では自然界における変化に方向性がある。それはエネルギーが散逸して、その質が下がっていくという方向である。そして、非可逆過程の起こっている系は無限に時間がたつと、もはや変化の起こらなくなった状態に到達する。この状態が熱平衡状態である。しかし、熱平衡といっても、どこまでの範囲を考えているかによって話は違ってくる。そこで、外界と熱も物質もやり取りしない系を「閉じた系」、外界と熱または物質をやり取りする系を「開いた系」ということにする。最近の科学、特に生物科学では、「開いた系が、熱平衡から離れた状態を定常的に維持している」ということの意味が、自然界の成立ちを理解する上で重要になってきている。

 

 

(4)「エネルギー」という言葉について

エネルギーという言葉は物理学の範囲では何らのあいまいさもない。ところが、経済学で用いるエネルギーという言葉は、一見、物理学のエネルギーという言葉と同じように見えるが、実は、違った概念なのである。

経済学で求めているエネルギーは、「消費することが可能な」エネルギーである。つまり使ってしまえば無くなってしまうエネルギーである。これに対して、物理学で用いるエネルギーは、エネルギー保存則により、決して無くなることのないエネルギーである。ただ形を変えるだけである。このように、物理学と経済学では同じ言葉を用いて、別のことを表現している。経済において大切なのは、エネルギーの量ではなく、エネルギーの質なのである。

経済学で使用するエネルギーという言葉には、人間としての価値観が入っていて、実は、「価値のある」エネルギーという意味である。だから、エネルギーを消費するとは、「価値のある」エネルギーを「価値のない」エネルギーに変えることを意味している。消費するのはエネルギーではなく、「価値」なのである。ところで、この「価値」とは何だろうか。

 

(5)エントロピー

岩波の理化学辞典によると、エントロピーは「状態量の1つ。エントロピーという名称はクラウジウス(1865)によるもので、ギリシャ語に由来し、変化容量を意味する。絶対温度Tでの準静的等温変化で微小熱量dQを吸収したときの系のエントロピーの増加dSは dS=dQ/T で与えられるから、これを積分して任意の状態におけるその値を定めることができる。」となっている。

ここでは、具体的に高温の物体と低温の物体を接触させたとき、熱が高温から低温へ拡散する「熱拡散」の現象から、エントロピーの変化について考えてみる。図のように、高温の物体と低温の物体を接触させると、熱が高温から低温に流れるが、熱Qの移動にともなって、S=Q/T で表わされるエントロピーも移動する。そうすると、高温の物体Aは、熱Qとともに、Q/TA のエントロピーを失う。一方、低温TB の物体は、熱Qを得ると同時にQ/TB のエントロピーを得ることになる。物体AとBを全体として考えると、そのエントロピー変化量は

       

であって増大している。つまり、高温物体から低温物体へ熱が拡散することによって、エントロピーは増大する。

このエントロピーという量が大切なのは、クラウジウスがエントロピー増大の法則を導いたからである。この法則は熱力学第二法則とも呼ばれ、エネルギーの保存則にあたる熱力学第一法則とともに、熱の関与する現象を記述する熱力学の基本法則になっている。エントロピーは閉じた系では増加することはあっても、決して減少することはない。また、上の例のような非可逆過程が起こると増大する。

エントロピーの増える原因は、摩擦(抵抗)と拡散である。力学エネルギーは整ったエネルギーであって、エントロピーはゼロである。これは摩擦(抵抗)で熱に変化する。熱エネルギーは、分子の運動が乱雑であるからエントロピーのあるエネルギーであって、この変化でエントロピーは増えることになる。電気エネルギーも整ったエネルギーで、エントロピーはゼロである。これは電気抵抗によって、熱エネルギーに変わる。これもエントロピーの増える変化である。高温の熱エネルギーは、低温の空間へ拡散する。これもエントロピーが増える変化である。いろいろなエネルギーをエントロピーで分類すると、次のようになる。

        エントロピーゼロ:力学エネルギー

                         電気エネルギー

        エントロピー小 :化学エネルギー(高品位)

                         原子核エネルギー

                         高温熱エネルギー

        エントロピー大 :化学エネルギー(低品位)

                         低温熱エネルギー

 

化学エネルギーというのは、物質内にある電子が持つエネルギーである。乾電池のように、これをうまく電気エネルギーに転換できるときには、その大部分を仕事に変えることが可能である。しかし、石油の持つ大きな化学エネルギーをそのように使う方法は見つかっていないので、どうしても燃やして熱にしてから使うことになってしまう。このように、化学エネルギーには大部分を仕事に変えることのできるものから、熱にするより仕方のないものまで、さまざまなものがある。

ガソリンエンジンや火力発電所は、ガソリンや石油を燃やして高温の熱源をつくり出し、空気または水を媒体として、熱エネルギーを低熱源である環境中に放出することによって、力学的エネルギーや電気エネルギーを取り出している。この図式は、実は最初に述べた生産活動にともなう環境変化・物質の流れの図式と同じである。このことから、「価値のある」エネルギーの価値とは、エントロピーが小さいということであったことがわかる。

 

 

生きている開放系

すべてのもので非可逆過程が起こり、エントロピーが生成して、系は熱平衡へ向かうというのがエントロピー増大の法則であった。しかし、私たちが自然界にみるものの多くは、熱平衡から離れた状態にある。これは単に反応時間が長くて、まだ熱平衡に到達していない、というだけなのであろうか。

いやそうではない。たとえば、生命を考えてみよう。生命があるところには温度の差もあるし、物質分布も一様ではないし、現在まさに反応も起こっている。とにかく、生命は熱平衡から大きく離れた系なのである。ところで、生命を断熱壁で囲まれた箱の中にいれておくと、数日の間に死んでしまったりして、熱平衡に向かう。そもそも私たちのお腹が半日ですくことから考えてみても、反応が起こるのは速い。生命は反応時間よりもはるかに長い間、ほぼ一定の状態で定常的に持続して存在しているのである。

この、「熱平衡から大きく離れた状態が定常的に存在できること」の秘密は、何であろうか。それは開放系で、外部とエントロピーのやりとりをしていることにある。このように、生命は開放系であり、外部からエネルギーを取り入れて暮らしている。そしてふつうは、エネルギー収支が最も基本的なものだと思われている。しかし、エネルギー概念を物理学でいうものにまで下げてみると、それは保存するものであるから、生命は外部から取り入れたのと同じだけのエネルギーを外部に捨てているはずである。それでは、生命は外部から何を取り入れているのであろうか。それは、「エントロピーの低さ」であるといえる。すなわち、生命がエネルギーや物質を取り入れる際にそれらと一緒に入ってくるエントロピーは、生命が外部にエネルギーや物質を捨てる際にそれらに伴って捨てているエントロピーよりも低いのである。

上の議論からわかる大切なことに、「エントロピーは、エネルギーにくっつけてしか、外部に捨てられない」ということがある。一方、エネルギー保存則ということがあるから、系が定常的に持続するためには、エントロピーをくっつけて捨てるのに要するエネルギーを、必ず外部から取り入れていなければならないことになる。そして取り入れられるエネルギーの持っているエントロピーは、捨てられるエネルギーの持っているエントロピーよりも、少ないものでないといけないのである。すなわち、取り入れるのは、エントロピーの低い良質のエネルギーでなければならない。

一般的には、取り入れるエネルギーは熱でなくてもよい。力学的エネルギーや電気的エネルギーは、エントロピーがゼロの最も良質のエネルギーである。また、そのエネルギーは反応することのできる物質でもよい。系の内部で反応し、系に入ったのと同じ質量の反応後の物質と反応によって生成した熱とが出ていくとき、それらの持っているエントロピーが、系の値よりも大きければよい。実際、生命の場合には、熱だけの出入りよりも、物質をともなう出入りの方が大切な役割を果たしている。なお誤解のないようにつけ加えるのならば、動物の場合、排せつ物の主なものは、食べ物の中にあった炭素や水素が酸化してできた二酸化炭素や水であり、これらは主に呼吸によって排せつされる。

地球という生きている系

地球、とくにその表面層では、熱平衡からはなれた生命現象や社会活動がいろいろと生起している。そのような開放系は、外部、すなわち、いわゆる環境にあるものから「低いエントロピー」を取り入れて、熱平衡から離れた状態を維持しているのだが、そのことは同時に、それらの系から環境にエントロピーを捨てていることを意味する。ここでいう環境は、地表から大気圏までを含めたものであるが、これもやはり熱平衡から離れた状態を定常的に保っている。そして、それはエントロピーを宇宙空間に捨てることができないなら、環境のエントロピーは次第に増大し、生命や社会が捨てるエントロピーを受け入れることができなくなってしまう。すなわち非平衡定常系は、それより大きい環境が非平衡定常系になっていて、初めて持続的に存在できるのである。生命という非平衡系は、地球大気という非平衡系のなかにあり、地球大気は宇宙空間と太陽という非平衡系の中にあって、はじめて存続することができる。

 

生きているとは何か

生物と生命と生きている系を区別してみたい。核酸とタンパク質などの生体物質で構成される地球生物を「生物」ということとし、構成要素にこだわらないで、代謝と増殖の機能を持つものを「生命」とし、代謝機能だけを持つ系を、「生きている系」と定義してみよう。

まず、生きている系から議論する。代謝とは、拡散能力、つまりエントロピーを積極的に消費して、生産を主体的におこなう流れのことである。例えば、ぶどう糖の拡散能力は、いずれは炭酸ガスと水蒸気と排熱のエントロピーに転化する。しかし、その流れの道筋は多種多様であり、そのうちどの流れが実現するかは、そのぶどう糖のまわりにどのような拡散される空間があるかということで決まっている。その多種多様な流れの道筋の中から、特定の道筋を選択するのが技術なのである。生物はぶどう糖を燃焼させて、ATPを38分子生産するという道筋を選択する技術を持っている。社会にも、こうした意味での代謝(生産)が存在し、その代謝を進行させる技術を持っている。

ただ流れているだけの系も生きている系もともに、拡散能力を消費して活動し、その結果生じたエントロピーを捨てている。しかし、ただ流れているだけの系は、この消費の道筋を選択しない。これに対して、生きている系は、積極的に主体的に、特定の道筋で消費するよう選択しつづけている。ここが、生きているということの本質なのである。ところで、積極的でないもの、主体的でないものの境界を具体的に示すことは不可能であって、それが生きている系と生きていない系を分割することの困難の原因となっている。

生きている系は、代謝を続けることによって、系の内部に発生するエントロピー(汚れ)を積極的に系の外へ捨て、系を再生している。これは努力と呼ぶべきであろう。しかし、この努力にもかかわらず、系に発生するエントロピーは捨てきれないで系内に蓄積する。または、まだ完全にはエントロピーになっていないのだけれども、拡散の前段階としての生体組織の破壊が修復できないで残ってしまうことがある。たとえば、動植物の細胞の染色体異常は、年齢とともに増大していく。これは老化現象のひとつである。このような老化つまり、修復不可能な破壊の進行によって、生きている系は、やがて生存を閉じることになる。代謝機能の維持努力は、生きていることの本質である。

そこで、通常の代謝による修復という方法をとるのではなく、根本的に自己をつくり直すという方法をとることがある。これが増殖である。生命は、自己を復元させるについて、修復力と増殖力の両方を使って、生命の定常性(持続性)を維持している。生命のさらに特殊な場合として、地上生物がある。この生物は、四種の塩基で構成される核酸と二十種のL型アミノ酸で構成されるタンパク質などの生体物質に特徴がある。

生命は、修復と増殖のほかに、第三の維持の機能として共生という方法を用いて、定常的な流れを維持している。それぞれが、独立の定常流である植物と動物と微生物の三者からできている系を考える。模式化して、動物は植物を食べ、微生物は動物を分解し、植物は微生物の分解した物を養分として生育するとしてみる。その結果、動物は、再び食糧を得ることができる。

このような、食い合いの共生系は、それぞれの生物が個別に存在するよりも安定である。一種類の生物だけの世界ではたちどころに死に絶えるような場合でも、共生系では、互いに食い合いをしながら、より長時間生きながらえることができる。しかしながら、この系が全体として外部から孤立した閉じた系であるかぎり、共生系であっても生き続けることは不可能である。なぜなら、動物が、微生物と植物を通って、再び動物の食糧になる場合に、その再生食糧はもとの食糧よりも必ず少なくなっているからである。

そこで、この共生系が持続的に共生するためには、その減少した食糧差分を追加してやらなければならないし、また追加することによって生じた廃物の増加分をこの共生系から取り除いてやらなければならない。つまり、この三者を合わせた全体の系も定常流でなければならないのである。このことから、定常流について、ひとつの定理に到達する。「定常流は、それより大きい定常流の中にのみ存在できる」という定理である。たとえば、動植物の細胞が生きていけるのは、この集合体である動植物が生きていて定常流になっているからである。この集合体が死ねば、構成要素の細胞もほどなく死ぬことになる。人間社会は、いま、環境に毒物をばらまいているが、環境が不健康になれば人間社会も当然不健康になるのである。人間が、この地表に生き続けられるのは、他の生物と共生関係にあり、その共生を包む地表が定常流であり、しかもこの地表を取り囲む大気が定常流だからである。現代文明は、人間のみがこの地表で生きるということを目標にし、他の生物との共生をすっかり忘れてしまっているように思える。

 

 

 

 

参考文献

1.槌田 敦、「資源物理学入門」、NHKブックス

2.槌田 敦、「石油と原子力に未来はあるか」、亜紀書房

3.槌田 敦、「エントロピーとエコロジー」、ダイヤモンド社

4.杉本大一郎、「エントロピー入門」、中公新書

5.室田 武、「エネルギーとエントロピーの経済学」、東経新書

6.小出昭一郎・安孫子誠也、「エントロピーとは何だろうか」、岩波書店

7.戸田盛和、「エントロピーのめがね」、岩波書店